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学生とともに東北で活動して思うこと

鬼頭 浩文教授
 2011年3月11日14時46分、忘れることの出来ない時刻である。津波の最初の映像が放送された瞬間から、東北で起こっていること、これから起こり得ることを想像した。仙台付近のヘリコプターからの生放送は、おそらく人が乗っているであろうクルマが津波にのみ込まれる瞬間を報じていた。仙台平野がこうであれば、三陸海岸での悲惨な津波被害は、容易に想像された。すぐに自衛隊の災害派遣が大規模に展開され、全国から大量の医療チームが派遣されるだろう。津波で多くの命が失われ、家屋の倒壊の規模も半端じゃないだろう。

 しかし、現実の被害は想像をはるかに超えていた。大きかったのは、原子力発電所の電源喪失である。想定を超えた津波といっても、応急的に対応できる何らかの手段を持っていると、普通の感覚なら思うのだが、そうではなかった。世界中がパニックになり、報道も原発の問題に追われていた。街並みそのものが津波で流されて全滅する映像、被災した学校や病院などの壮絶な現場の状況、街並みそのものが火災にのまれていく姿も、映し出されてはいた。しかし、おそらく世界の多くのリーダーたちは、とにかく原発を制御することを最優先にすべきだと考えたであろう。原発が制御できなくなれば、津波で被災した人を救いに行くこともできないどころか、東北や首都を放棄して避難しなければならないような事態に発展する可能性も、心配しなければならなくなる。そこまでは至らなかったものの、いくつもの市町村が丸ごと避難しなければならない結果になり、津波で行方不明となった人たちを捜索することもできなかった。

 津波被害を受けた激甚被災地では、水没したままで孤立した被災者の救出や、避難所での悲惨な生活の状況が伝わってきた。政府は原発への対応に追われ、宮城・岩手の被災地へのケアを十分にできなかったのかもしれない。被災しなかったエリアからクルマで1時間も走れば到着できる場所で、飲み物も無い避難生活が数日続いた。その後も、食料や飲み水、移動のためのガソリン、暖房用の灯油、避難所で寒さを防ぐ毛布、何もかもが不足していると窮状を訴える報道が続いた。地方行政そのものが被災し、支援の受け入れもできないほどの被害を受け、被災者は極めて過酷な避難生活を送った。

 そんな東北の状況をテレビで観ていたわれわれ東海地方は、どうだったのか。何も不自由を感じることもなく生活をしていた。ミネラル水や卓上ガスのボンベが不足すると噂が広まって買い占めが起こり、いろんな商品が棚から消えたりはしたが、普通に食べて、普通に寝て、普通に暖かく暮らしていた。そのギャップは、本当に大きかった。しかし、多くの日本人が「絆」を意識し始め、巨額の義援金が集まり、多くの支援物資を持ち寄った。人々は、何とか被災地の助けになってほしいと願って、いろんな行動を起こした。
 四日市大学でも、被災地の支援をするため、災害ボランティアを派遣しようということになった。四日市東日本大震災支援の会の発足である。発災から10日後には情報収集を始め、4月1日には具体的な派遣に向けた準備を開始した。極めて情報が限定されるなか、ボランティアの受け入れ方法も未定で、何も現地のことがわからない。それでもバスを手配し、学生を集め、ゴールデンウィークに活動することを想定した準備を進めた。活動の詳細は、鬼頭研究室を参照されたい。<鬼頭研究室

 あれから1年、酷暑のドロかきや物資支援は昨年6月で終わり、今年の2月からは、被災者の精神的な支えになればと、仮設住宅での交流ボランティアという形で活動を再開している。4月以降も、継続的に宮城県の東松島市を中心に活動を継続したいと考えている。現地での活動は、悲惨な体験談に精神が押しつぶされそうになったりもするが、暖かい出会いもある。被災地での活動は、学生を本当に大きく成長させる。それは、大学人として純粋に嬉しいことである。冷静に活動を検討し、被災者の役に立っているのか、自立の妨げになっていないか、常に検証しながら、活動を続けていきたい。被災者の皆さんの復興への歩みに寄り添い、できるだけ早く明るく笑って思い出話ができる日が来ることを願っている。


2011年5月1日〜5日の最初ボランティア派遣 (東松島市大曲地区)
活動時の記事はこちら

2011年7月2日酷暑の活動はバス満載で
活動時の記事はこちら

2012年3月24日仮設住宅での交流ボランティア
 
 

 


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